中野区髙德寺に眠る新井白石(あらいはくせき)先生のご紹介

新井白石について

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生い立ち

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政策や行なった行動

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新井白石人物紹介

新井白石(あらいはくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。
一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)の侍講(じこう)として、
御側御用人(おそばごようにん)・間部詮房(まなべあきふさ)とともに幕政を実質的に主導し、
正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。

家宣の死後も幼君の七代将軍・徳川家継を間部詮房とともに守り立てたが、
政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢(あつれき)を生じ、
家継が死去し、八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。

学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。

新井白石について

江戸中期の朱子学者、政治家。名は君美(きんみ)、通称勘解由(かげゆ)、白石は号。
木下順庵に朱子学を学び、その推挙により甲府の徳川綱豊(のちの家宣)の儒臣となり、
宝永六年(1709)家宣が将軍になると幕臣として、間部詮房(まなべあきふさ)とともに家宣を補佐。
正徳の治を開き、教学と政治の一致につとめた。
武家諸法度改訂、貨幣改鋳、海舶互市新令(かいはくごししんれい)の施行、儀式典礼の整備などはその主な事績である。
享保元年(1716)引退。
学者として特にすぐれ合理性と実証を重んじ、朱子学的思考と実践の結合した合理主義者であり、
日本古代史に合理的解釈を試み、外国事情にも意を用いた。

著書も多く、近世屈指の大学者と目される。

【主著】
「藩翰譜(はんかんふ)」「読史余論(どくしよろん)「古史通(こしつう)」、
洋学興隆の端緒となった「西洋紀聞(せいようきぶん)」「采覧異言(さいらんいげん)」、語源辞典「東雅(とうが)」
自伝「折たく柴の記(おりたくしばのき)」などがある。

享保10年(1725)没、69才。

生い立ち
白石は明暦の大火の翌日の明暦3年(1657年)2月10日、
焼け出された避難先で生まれた。
幼少の頃より学芸に非凡な才能を示し、わずか3歳にして
父の読む儒学の書物をそっくり書き写していたという伝説を持つ。

政策や行なった行動
六代将軍家宣・七代将軍家継の時には幕政を補佐。
綱吉が作った「生類憐れみの令」の廃止。
武家諸法度改訂、貨幣改鋳、海舶互市新令の施行、
儀式典礼の整備など

高徳寺とのゆかり

新井白石はその生涯(明暦三年(1657年)~亨保十年(1725年))二度に渡り当寺に寄食された。
一度目は延宝三年(1675)から同七年まで、二度目は元禄四年(1691)から同六年までと記されている。
白石の父、正済(まさなり)のご血縁が当寺の坊守であった関係で、いずれも貧苦不遇の時であった。
しかし白石はそれに負けず勉学にいそしみ、特に延宝の時代には独学で万巻の書を読まれた。
夜になると寺の屋根にのぼり月光で書を読み、睡くなると水をかぶり寸暇を惜しんだと寺伝されている。

元禄の時代には数々の著作をされたことも有名であり、
当時の住職との親交は白石の著「折りたく柴の記」に記されている。
なお、太平洋戦争中の空襲により、オリジナルの「折りたく柴の記」をはじめ、
髙德寺に保管していた白石先生の書籍、携帯品等の貴重な品々がすべて焼失してしまったことは、大変に残念である。

境内墓地内には新井白石(あらいはくせき)夫妻と一門の墓があり、都の旧跡に指定されている。


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